2019年08月10日

泣くのは神の足元だけに

 退院して一か月半。夫はほとんどまともな生活を送れなくなってしまった。いよいよこれからすべての結婚した女性たちが通ってきた道を、私も歩むことになりそうである。
 聖書には記されている。
 「疲れたもの、重荷をしょう者は私のところに来なさい。休ませてあげよう」
 教会に行き、ミサを受けると、その通りになってしまうこの不思議さ。
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 人間は思い込みの生き物だから、錯覚で気持ちが穏やかになるのかもしれない、などと疑ってみるのだが、それにしては余りに力強く立ち位置が変わっている。苦しみが、何かに吸い取られてゆく、とでも表現しようか。それ故に、帰り道、「あなたはやはり、それにおられるのですか」と青い空を見上げてひとりごとのようにつぶやく。
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 それは、ある意味で、男女の恋愛や親子の愛情。
 あるいは執着、憎悪や怨念など似ている心の動きなのかもしれない。
 遠く離れた相手のことを、このような欠点がある、このようないい点がある、などと冷静に分析してみても、いざ、その人の前に出ると、そんな判断はどこかにぶっとんで、生の自分がそこにいる。それは、下意識の仕業なのかもしれないし、生まれた時から決して成長しないといわれている感情のしわざなのかもしれない。
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 カトリックの教義では、一般に、それこそが「神の恵み」とされ、その動きをしてくれるのは「精霊の仕業」とされている。
 私としては、受礼して何十年とたつが、いまだに理屈よりも、ただ、ミサを受けているだけで心は静まり、苦しみから解放され、広い視野がみえだしてくるという現実的救済がそこにあるだけだ。
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 しばしば「信仰は頭で考えるな。心で受けとめよ、」とも言われる・そうはいっても、一般の日本人には、そうした表現もごまかしにしか受け取られないようである。だから信仰をもたぬ人たちにせせら笑われても、私は辛い日には日曜日だけでなく、朝の六時半からミサを受けに行くことがある。おかげで、私は、どうにか明るく闊達に、時には笑い声をたてながら生活している。泣くのは、神の足元だけにして。
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posted by アンジェリカ at 13:30| Comment(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする