2011年09月12日

「流れる雲」

二ヶ月ほど前に、フロリダに住んでいる父方のたったひとりの叔母が、突然、亡くなった。それも、快活な声で、「また、会いましょうね」という言葉を残して。若かった時は、互いに理解しあえないでいたが、後年は、母親がわりになろうとしてくれた人だ。押さえても、押さえても、涙が零れ落ちてとまらなかった。と、同時期に、知り合いが、歯がぽろぽろと抜けるように二人ほど亡くなったことを知った。

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ある本で、「だいじょうぶ。人は、誰でもまわりの死に、すぐに慣れてゆく」という文章を見つけたことがあるのだが、ほんとうなのだろうか。
私は、ひとつの思いに入り込むと、そこから抜けだせなくなり、放っておくとズンズンとはまってゆく情けないタイプに所属している。

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喪失感に打ちのめされて、次第に、身を整えて知人に会うのも億劫になり、好きな音楽を楽しむ余裕も遠のいて、軽井沢の緑あふれる景観も味気ないものに変わり果てていた。
ひたすら、日がな一日、次の題材になるかも知れぬ本ばかり読む日々。それは、それで別世界に入れるほど充実していたので、十日も続けていたら、今度は、片側の目がかすんで見えなくなってきた。生まれつき眼圧が恐ろしく低くて、通常の光を入れることができないと、医者に言われている。

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そこで、また、別のノックアウトの現象が起きた。「ああ、ほんとに、ほんとにもう、自分は、若くないのだ」という嘆きが・・・・・・。とたんにエネルギー切れと自覚して、逃げ込むようにパートナーの元に戻り、ひたすら眠り続けた。こうした時は、薬もなしで、何日も、眠ってします。眠気がなくなってきても、「すべてに億劫気分」は抜けず、考えることは、マイナーな思考ばかり。

そうした回路にうんざりした頃、たとえ、億劫であっても「ほんのすこしの勇気」を鼓舞させて、「ちょっと行ってみてもいい場所」に出かけた。最初の百メートルは、足が重たく、戻ってしまいたい衝撃にかられたが、そこで、また、もう一度、小さな勇気を出して「まあ、ともかく行ってみよう」とつぶやき、ノーメークのまま、よたよたと歩いて行く。

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今回は、明治神宮の野原に座り、空を見ていた。ちょうど台風がきていたので、幾重にも重く雲は垂れ下がり、手を伸ばせば届きそうな塊が、まるで特殊カメラでも使っているように、異様な速さで上空を流れていた。目を奪われて眺めること三十分。
家に帰ったときは、気分ががらりと変わっていた。

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般若真如では、人間は流れてゆくもの。一瞬たりとも、同じ時はない、と書かれている。だから、「ああ、年をとったなあ」などの嘆きの認識は間違いで、「刻々と変わってゆく自分や周囲に対して、いかに対応し、新たな自分を生み出してゆくか!!」と言葉を置き換えるのが、正解のような気がする。
posted by アンジェリカ at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする