2013年03月01日

順応達人

若い時、風邪でもひいて医者に行くと、待合室で高齢の方が、「私はここが悪くてねえ」「私はこちら」といかにも自慢げに会話が弾んでいるのを聞いて、いつも不思議に思ったものだ。それが、今、ようやく分かる。友人と電話の中で、同じようなことを言っている自分に苦笑するようになったからだ。あれは、ある意味で、情報交換だったのだ。
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 あと、数年で、二週間ほど聖地イスラエルの旅に出る。
 昨年、決めた時には、何気なく参加申し込みをしたのだが、それを発端として自分の身体能力を眺めてみれば、驚くほど、昔と違っている。当たり前のことなのだが、いよいよ老いが始まったのか、とがっかりして、本屋で、老いに関する本などを手にしてみた。そうしたら、もっと、落ち込んでしまった。「六十代過ぎれば、人生のいいところは、ほとんど終わった」とか「晩年を美しく生きるには、できれば自然に、できなければ歯を食いしばってでも、ひとりで生きようとすることを考えている人のことである」などなど。
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 かなりきつい。そこで、若かった時の自分を思い返してみた。もう、一度、戻りたいか、と問いかけてみる。「絶対にノー」という言葉がすぐに返ってきた。あんな苦しい時期はなかった、と。それも、これも、すべて、自分の心の激しい浮き沈みに翻弄されてきたからだ。もちろん、おしゃれも自由にできたし、周りからは、多少、ちやほやされたかもしれぬが、穴に落ちた時はまるで生き地獄のようなものだった。しかし、六十代に入った頃から、まったく、そうした穴にすっぽりはまることはなくなった。たとえ、入りそうになっても、あるレベルで抜け出せる自信が生まれた。これは、私にとっては、生きる上で、最大の恵みのようなものだ。加えて書けば、信仰というもののダイナミックなうねりによって、はじめて、簡潔したのかもしれない。
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 故に、日々、身体的にはゆるゆる衰えていったにせよ、一方、精神的には、もっと、もっと成長し続け、それによって、心身ともにケアできたら、どんなに素晴らしいことだろう。それを、あえて、「老い」と呼ばずに、「順応の達人」とでも呼びたい。名称未設定 5.jpg
posted by アンジェリカ at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする