2014年12月26日

思いがけない贈り物・禁煙

 今年もあとわずかとなった。秋から冬にかけて、友人たちにびっくりされていることがある。「禁煙した」「それも、ダイエットのついでに、軽い気持ちで試してみたら簡単だった」と話すと、相手は「嘘でしょ」というばかりに疑い深い目をこちらにむけるか、無言になるかどちらかだった。煙草を吸う、吸わないに限らず、その方法を聞いてくる方がほとんど。自分のことでなくても、身近な方が苦労なさっているらしい。
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 私の場合の成功の要因は、一重にダイエットと同時進行させたことにある。つまり、ダイエットというものが、余りにきつすぎて、一日、三十本以上吸っていた禁煙の方まで、禁断症状の自覚が至らなかったということなのかもしれない。食欲というのは、我慢していると、一日中、ひもじい思いが続いていて、昼間だけでなく、夜中も腹がすいて目が覚めるほどだ。ところが、煙草に手を伸ばしたくなる瞬間を、一回、一回、丁寧にメモしてみると、第一に、気分転換したい時。第二に、退屈している時。その二種類にほとんどがおさまることに気づいた。そのほかは食事の後とか・・・。つまり習慣化されているにすぎないのだな、だから変えられるよね、と思うことにしたのだ。
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 ゆえに、食欲の我慢のついでに、ちょっとした工夫を試みた。つまり、何かひと仕事をして、椅子に座り、ほっとしたくなり、煙草に手がのびた時、ひと呼吸をおいて、自分に改めて聞いてみた。「ほんとうに、今、吸いたいのですか?」と。とりたてて、絶対禁煙などと決めていないから、「それでも吸いたかったら、どうぞ・・・」と目の前にライターもおいてある。すると、どうしても吸いたい煙草は二本か三本。一日、一本になった時に初めて、「これは、まずいな。本気で、止めてみようかな」と思った。なぜなら、その一本を吸うために、<一日のお楽しみは、そこにしかない>的な思考がぐるぐるまわり始めたからだ。
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 そこで本屋さんに行き、本を二冊買った。一冊は禁煙セラピー。もう一冊は一日一食だけで十分健康になれる、という内容のもので、この時も、ニコチンのことよりも優先順序はダイエットのほうだった。というわけで、机の中や引き出しにしまい込んであった煙草やライターを始末したのは十月あたりだと思う。
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 あれから五か月。身体というのは、こんなに軽かったのかと驚いて、何をするにも、これまでの二倍とはゆかなくとも一点七倍くらいの運動量が保たれている。一方、ダイエットの方は、あいかわらず苦労のしっぱなし。フーフーため息をつきながら、リバウンドしないように何か口にいれて飲み込んでは、一喜一憂している。
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posted by アンジェリカ at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月03日

明日はいつも新しい

 頼れるのは自分だけ、という意識を坐骨に据え始めたら、対人関係での接し方が少しずつ目に見えて変わってきた自分がいて驚いている。
 これまで、ごまごまとした注意事項をメールで送ってくる親切すぎる友人には、仕方なく返事を出していたが、平然と無視できるようになった。また、ちょっとした顔見知り、たとえば薬局の薬剤師が、ある時は横柄に、ある時は、こちらを奇人扱いするのに、いちいち腹をたてて、半日もいらいらしていたのだが、そうしたことが馬鹿馬鹿しくなった。
ちょっとした言葉のやりとりでも、必要以上に相手を褒めたりせず、自分の気持ちに一番近い心地よい言葉を無意識に探すようになった気がする。
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 そして白状すると、今回の件で、夫を本当の意味で大切にしようという気持ちになれたようだ。これまでは、パートナーが亡くなり、話し相手がいなくなったら、さぞや寂しいだろう、という自己中心的発想から夫を イカニ、 ナ ガ モ チ させようか、としていたのだから。
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 けれども決していいことだけじゃない。夜中に、寝汗びっしょりとなって目が覚めることがある。その一瞬の味気なさは身も凍る思いもする。が、着替えなどしているうちに落ち着きを取り戻す。支えになるいくつかの言葉が頭をよぎる。「この雨土に、佇んで、ひとり、微笑む」そんな意味の言葉。先月亡くなった高倉健さんの言葉だ。そして、ベッドの脇の言葉。「ひとりの素の人間に立ち戻る幸せを知る」あと、もう、ひとつ、言葉をなぞる。「意地の悪い価値基準からの  視線や言葉を もはや 毅然と無視できる勇気が  あなたには備わっています」自分を鼓舞させるために新たに加えた言葉なのだ。するといつのまにか眠りに落ちている。
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 いずれにしても世代が違うということは、価値観が違うということ。
 私は、四十年前の結婚の時点から今日までの人生をすべて自分の手で決めてきた。地位も財力もある見合い結婚の相手から逃げ出すために、二回も家出をして。恋人がいたからではない。二回とも自分の意思を消し去ることができず、正直でありたいと周囲の勧めを溝に投げ捨てた。親の時代の価値観からすれば、私ほどの我の強いじゃじゃ馬は、そう、ざらにはいなく、さぞや恥をかかせたり、胸を痛ませたことだろう。この年齢になって、改めて天を仰ぎながら、親に詫びをいれている自分がいる。
 これから、自分がどのように変わって行くか、あるいは変われぬまま後退してゆくのか、観察するのが楽しみでもある。
 明日はいつも新しいのだから。
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posted by アンジェリカ at 13:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする