
まるで脅しに近いようなニュアンスである。もっと賢くあれ、と言いたいのだろう。
確かに年をとってゆく者にも責務というものはあるはずだ。だが、自立すること。若い人たちの手を煩わせないように、いかに健康寿命を保ってゆくか、日々、心を砕くこと。「ああいうふうに年をとってゆけたら」と若者達に尊敬の念を起させるほどの人生を送ってゆこうと、日々、心を砕くことなど。それが年長者の責務である、というように。

理想論でなく、損得勘定で答えるのが良い解答なのかもしれないが、社会の急激な変化により、誰もが戸惑っている問題なのだから、ここはひとつ、品位ある意識改革の道をとってほしいのだ。

さりとて、この年齢になってようやくわかってきたのだが、いくら年を経ても、真の成熟など誰ひとり手に入れている人はいない。いくつになっても短所は短所のまま持ち続けるらしい。だが経験を積んで、熟練している人たちはいる。私ですら日常で生きていることを、ようやく一人で咀嚼できるようになってきて成長したな、と思えるから。

人生六十年の時代は終わり、そこから三十年近く生きてしまうのだから、新たな人生展望が必要だ。ここ数年、はやりだした生前葬や断捨離などは感傷にすぎないと思えてならない。死とは全く関係のないところで、私たちは、より生き生きと生きねばならないのだ。なんと過酷で、ダイナミックな未来設計図。この命つきるまで続くのだから世界一のわが冒険談でもある。それを思う時、素晴らしい言葉に出会った。「悲観主義は気分の問題。楽観主義は意志の問題」ですって。
