2015年12月07日

三島由紀夫あれこれ

 過日、三島由紀夫シンポジウムの最終日に、かろうじて出席した。
 三島が四十五年前、四十五歳で割腹自殺をした日、私は原宿の南国酒家でお見合いをしていた。頭の中は、相手の男性を観察するどころでなく、「あの天才が死んでしまった」と思い詰めたように同じ言葉がくるくるとまわっていた。一枚の枯れ葉を、古代地中海の黄金に変えてしまう文章マジックに魅せられていた頃だったからだ。
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 三島といえば半世紀前、すでに二十一世紀の日本人の姿を確実に言い得ていた。武士道を無くした日本人は、ニュートラルで無機質な軟体動物のような空っぽな群像になるだろう、と。そうして、自分は、そうした人々ともはや話す言葉をもたない、と。
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 最近、新渡戸稲造の「武士道」が再び脚光を浴びていると聞く。大和魂には名誉の掟があったと。確かに、重すぎるという理由で軽んじられているのは、「責任感、正義感、誠実であろうとする」などのことだったりする。それらの精神が、ひとたび浅いところで受け入れられてしまえば、とんでもない方向に発展することもあるのだから。けれど、それだからと言って損得だけの合理主義が大手を振ってまかり通っている現状ではあまりに哀しすぎる。
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 電車の中で、スマホなどを終始眺めている人々は十名中、九名になり、ちっともめずらしいことではなくなった。私もiパットを使うようになったので気持ちはわかるが、未だにはたから見ていて呟くことがある。
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 到着するまでの時間、じっと動かず、話もせず、ぼーっとしていること。それは退屈なことなのかもしれない。しかし、その時空間、去年の桜の散りぐわいをチラリと思い出したり、自分が悪口を言ったために失った人のことをふっと想ってみたり、二年後に標的を合わせた展覧会への思いを反芻してみたり・・・・・そうしたことは、もっとも無駄でありそうでいて、静かに自分自身を眺める前の予行演習のような、なんらかの「ため」のようなものを蓄積したり、放逐したりしているのではないだろうかと思えてしまう。
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 ほんの短い時間でも、何かの対象にかかわりあっていなければ落ちつかない人々。
 彼等は、まるでひとりである寂しさを寂しいと感ずることを自分に許せず、心の芯のようなものから逃れているような気がしてならない。
posted by アンジェリカ at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする