2016年03月29日

続・海が教えてくれた「自己肯定」

 三月、伊豆の海での考察から、まだ一ヵ月もすぎていないのだが、何かが確実に変わって驚いている。この間までのこの心は、たこ糸で、がんじがらめに巻かれた生のローストビーフのようなもので、生血を見ないようにと必死で目をそらしていたとしか思えない。今は、日に日に、こわばっていた意識が解きほぐれてきて少しは鷹揚さもでてきたような気がする。
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 そこで娘に伝えたい。小さい頃のあなたは、母のことが大好きで、きっと、必死で「いい子」をやってきたのよね。つまり、なんでも「おかあさんの言う通り」に。なのに母の方は、子が勉強は嫌いだったからといって、そこだけを拡大鏡で見ていて、子の気持ちを少しもわかろうとしなかった、と。
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 大人になった子が、「母は凄い。それに比べて私はだめな人間に思えてしまう」という内容の手紙をよこした時、母は暗澹とした気持ちに打ちのめされて、どのように対処したらよいのかわからず、途方に暮れていた。
 そして、その「途方に暮れる」という心境は、実に、六十数年前の幼児の私を前にした時の、母の心境でもあったのでは・・・と思えてくる自分がいて新鮮だ。
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 たぶん、誰も悪くないのだ。誰も劣っているものでもなく、失格でもない。
 それぞれの時代やそれぞれのしがらみによって、三者三様の色合いで、形も表面も違うのだが、一生懸命生きている命のぶつかり合いなのだと思える自分がいる。
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 今、初めて言えるこの言葉。「子育てして、ほんものの自信がついてきたあなた。ほんとうに良かったわね。辛いけれど、今のあなたを受け入れます。私もやるべきことをやって、成長してゆくつもり。手と手をしっかりと握りあえる日を、心のどこかで待ちながら」と。
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 最後にサミュエル・ウルマンの詩。
 私は茨のない道を求めない      悲しみが消えようとも求めない
 日の当たる毎日も求めない      夏の海も求めない
 輝く陽光と永遠の昼のみでは     大地の緑はしぼみ衰える
 涙の水がなければ   歳月を通して   心の奥底は   希望の蕾を閉じる
 人生のどんなところでも    気をつけて探せば    豊かな収穫をもたらす 
posted by アンジェリカ at 15:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

海が教えてくれた「自己肯定」

 早春の伊豆・下田の多々戸浜に来た。ここは、サーフィン好きに好まれる白浜で、その朝も三十人ほどの若い人が、波を楽しんでいた。私は離れたところで裸足になって波打ち際の砂の上を幸福感を味わいながら歩いていた。
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 道中、三十代のおかあさんが佇んだまま身動きしない。目の方向には、まだよちよち歩きとおぼしきほどの幼児が、漂う波の中、二人の男性に囲まれて、小さなサーフィンの板に乗せられては沈み、沈んでは乗せられていた。二、三十分は続いている。「あの子は楽しんでいるのだろうか」といぶかり、思わず「おいくつですか?」と聞いた。「四歳になったばかりです」おかあさんははじける笑顔で答えた。「それは、さぞや、おじょうずになるでしょうね…」
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 複雑な思いで私は打ち寄せる波を味わいながら再び歩き出した。思えば私も同じだった。娘が幼児の頃から、どのように導いたら大人なって幸せに暮らしてくれるだろうか、と
心を砕き、最善の道を選択してきたはずだった。なのに、娘は主張するのだ。愛情を感じてきたことはない。ただ監視されてきただけだ、と。
 どうやら、このような事態は我が家だけではないらしい。ここ何年かの間に、娘たちが「重たい母親」というおぞましくも滑稽な表現で、実母を非難するのが、ある種のブームでもあるらしい。
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 一年に一度のこの時期、私はたまった澱のようなものを捨て去るために伊豆半島にやってくる。今年もキリキリ舞いになって伊豆踊り子号に乗り、心のあり方を取り戻しては命の洗濯をした。そこで、あえて控えてきたことを今回は勇気を持って記すことにする。
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 異色の僧侶。小池龍之介氏風に考察すれば、
 「立木さん。あなたが、これまで怒ってきたのは、あれだけ本気で愛したのに、子が慕ってこない惨めな母という自分を認めることができなかったからでしょう。子に慕われないほどの決定的欠陥が、あなたにはあり、劣っている、ということを認めることができなかった。でも、そうではないのです。劣っていたわけではなく、ただ単に、そうなったということなのです」
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 この考察を娘の立場からも試してみようと思う。 
 彼女が、なぜ母親である私に対して怒りの叛乱を起こしているのか。
 娘は、言う。「もの心ついた時からお父さんはおかあさんだけを見ていた。少女の時期も十代の時期も、お父さんはおかあさんだけを見ていて、私には無関心だった。一人っ子だったから、私はいつも寂しかった。自分を表現する方法もわからず、我慢ばかりしてきた」
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 昔から男には二種類のタイプがあるといわれている。
 ひとつは子煩悩のタイプで、子は可愛がるが、妻には干渉されたくなくて、外で自由に楽しみたいタイプ。
 もうひとつは少数派ではあるが、子供という存在そのものが好きでなくて、妻さえいれば良いタイプ。わがままを言うのも、頼るのもすべて妻に対してで、妻が子に示す愛情ですら疎ましく、自分だけ世話をしてもらいたいのだ。彼等は仕事に邁進する昭和の男たち。子は、手がかかりすぎて、仕事一筋には邪魔でしかない。

 故に、「父親が、子に対して愛情を示さなかったのは、子が劣っていたからではないし、男子ではなく女の子だったからでもない。また、父親が、妻に固執したのは、妻が優れているからではなく、ただ、単に、妻を必要とする男だったに過ぎない」のだ。
 小池氏によれば、自己肯定できるかどうかが、自己再生のキーになるらしい。
 後ろを振り向けば、砂についた私の足跡は消えていて、犬が波とたわむれていた。
posted by アンジェリカ at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする