
終戦記念日に生まれた同年代の友人に送る誕生日カードには「あなたの夢に一歩でも近づく一年でありますように」とこれまで記してきたが、この夏は「そろそろやり残しのない一年を送りたくなりましたね・・・」みたいな言葉に代えてみた。

十日ほど過ぎて、はたと顔がこわばった。
この考え。この考えこそが、危険アラームそのものではないか。間違いの源になるくわばら思考のはじまりではないか、と。一般論としては、年をへてゆくに従って、ほとんどの人が気むずかしくなり、妥協せず、孤独に陥って行く、というのが定説だ。私のまわりでも「もう、この年齢になったのだから、嫌なことは一切したくない」故に、所属団体を辞めた、とか、あの人との付き合いは切った、などの言葉を耳にする。

だから・・・と私はため息をつく。古い友人達が段々意固地になってゆくような気がしてならないのだ。思えば、女帝であった祖母も口癖のように言っていた。「もう、還暦を過ぎたのだから、みんなには私の言うことをきいてもらう」だが、昔の年寄り達は、恵まれていたと言いたい。もちろん戦争というとてつもない悲惨な体験はしたかもしれないが、彼等は「年寄り」ということだけで「いばる」という特権が与えられていた。

私たち団塊世代は、年長者には「敬う」という礼儀作法で接しなければならず、若年層には、年をとることが「ひけめ」にならぬよう己を戒め、成長、変化しなければ、馬鹿にされ、見向きもされぬことは確かだろう。だが、それは、それでよいのかもしれない。

太古以来、時代は、常に変化してきたのだから「やりがいがある」というべきか「楽しみがふえた」と明記しよう。名前をここに記すのは控えるが、今年、御年八十九才になられる私の人生の師匠である素敵な女性からもらった言葉。
「年をとるということは、みんながみんな、修行僧になってゆく、ということかもしれないですね」その言葉に乾杯。