
それというのも娘との確執が深刻化してきて「一体、どうしてこんなことになってしまったのか」と嘆く気持ちがわき出るたびに、せめて冷静に判断しようと時代を眺める作業を試みている。そこでわかってきたのは、娘達の世代が悪いわけでもなく、一世代上の自分たちのあり方が悪いわけでもなく、これは結局のところ「年代闘争なのだ」という結論に達している。

それは、一家の中で父権を主張して君臨してきた男達の失墜であり、歴史をさかのぼれば。1960年代のカウンター・カルチャーにことを発しているのでは、と勝手に解釈している。あの頃、アメリカではベトナム戦争に反対した若者達が、既存の権威に抵抗して家族を捨て、社会的地位を放棄してヒッピーとなった。
いわゆる、ありとあらゆる「権威の崩壊」が芽ばえたのだ。

確かに、半世紀前まで子育てをするのは女の仕事だった。けれども十年前に、三十代の男子編集者から「最近、仕事が忙しくて赤ん坊の面倒が見れないので、妻の顔が険しくなってきて爆発寸前なんです」と愚痴とも言い訳ともとれる言葉を聞いた時に、私は気づくべきだった。時代の急激な変化を、驚嘆しながら複眼的視野で眺めるべきだった。
なのに私は絶句したまま傍観していただけ。クエッション・マークを連発しながら。

時代のめまぐるしい動きに順応してゆくことは、なんとむずかしいことなのだろう。
そのむずかしさは、この年齢になってようやくわかる、なぜなら生を受けて半世紀以上身についてきた価値観のある部分を(訂正して)、入れ替えしなくてはならないのだから。
誰にでもできるということではないだろう。パートナーは変わるつもりはない、と断言している。まるで男の沽券にかかわるかのように。さて、私は・・・。付け焼き刃ではなく、本物にするにはどうしたらいい?
