父親がある判決をしたことにより殺人罪に問われてしまった時、息子は無罪になる為に、あいまいで合理的な証言をして欲しいと説得するのだが、父親はガンとして受け入れない。その時の会話がいい。
「レーガンは冷戦を終結させたが、今みんなが語るのはアルツハイマーのことばかりだ。自分は晩節を汚すわけにはゆかない」「レーガン。あのレーガン大統領と比べるのですね。失礼ですが、あなたは小さな町の判事に過ぎない。誰があなたの老年を気にしたりするものですか」
「私がする。この私がするのだ」
そこで私はジーンとなって、毎回、涙ぐみそうになるのを堪える。それと同じ体験を遂にというかとうとう現実の血の繋がりの父親像で体験することができた。先日 父のゆかりのあるご夫妻が軽井沢の我が家に立寄ってくださったのだ。
父の会社は本体は長野県松本市にあったが東京でも事業を展開させていたので、私達兄弟は家庭の団欒を知ることもなく、幼少期から成人するまで親子としての親密な交流はなかったといえる。が、しかし、そのご夫婦は、かつては父の会社の社員であり、ご主人は 亡くなるまでの何十年、側近として常に父の片腕となっていてくれた方で、現在、社会的に確固たる地位を築いておられている。その方たちとの会話。
「父は表面はいつも穏やかそうに見えますが、 実はものすごく短気で鉄火でしたから、そばにいらして大変だったことでしょう。お察しいたします」「確かに大喧嘩は何度もしましたが、いつも暖かい目で見守ってくれているのはわかっていましたから、翌日にはもうすっかり忘れていて普通の会話をしていました。本当にあんなにお世話になったのに、恩返しも何もできず・・・」「多分、父はアメリカで活躍していた祖父を意識していたと思います。でも、今ひとつ時代に乗れなかったというか・・・」 「そんなことはどうでもいいんです。なんというか、何事にもバランスがとれていて、何事にも全力投球、ともかく心のある人でした。こころが・・・」
最後のこの言葉。ありがたく、ありがたく、味わっています。ナマの宝物を貰いました。写真の赤ちゃんは103年前、米国シアトル市で誕生した父。