2018年09月03日

迎え火と送り火

 この夏、初めてお盆の時期を高原で過ごすことができた。そこで幼少の頃、母がしていた記憶を辿って、キュウリやナスで牛車を作ったり、庭先で迎え火や送り火を炊いたりした。元来、私はカトリックなので、これまで一度も考えたこともなかったが、前々から「 天はひとつ 」と思っていたし、父は 幼児洗礼 プロテスタントであったが、亡くなる時は 曹洞宗であったので、抵抗なく、お盆の風習を無性にやらずにおれない気持ちになっていた。
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 お線香をたてる香炉は、先月、父のゆかりの夫妻が来てくださったのをきっかけに、小さな床の間に写真を飾り、実家譲りの観音様が鎮座なさっている場所にある。四日間のうちに、徐々に、母との和解が進行してゆくのを、そこはかとなく感じて、自分でも驚いてしまった。それ以来、ずっと穏やかな気持ちでいる。
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 私は精神的には人並み以上に苦労してきたと思い込んでいる節があるが 、金銭的にはあふれるばかり?の豊かさの中で育ってきた。このようなことを記すと、周りの方に反感を抱かれるかもしれないが、あえて記すと、現在のように客を招くにも躊躇することはなかったし、身につけるものは 肌触りの良いものは当たり前。一夏着れば、汗疹ができてしまうポリエステルがあることも知らなかった。スーパーで牛肉を買うのに、値段を見比べて首をひねることも皆無だった。
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 なのに・・・何故か思う。「今ほど自由でなかった」と。
 今ほど 精神の自由を謳歌していなかった、と。
 今、現在は、健康であることをありがたく思いながら、大きな事柄でも小さな事柄でも、 縦に斜めに逆さにして、何らかの形で面白さを見つけ出し、引きずり出して、それをホンモノ にしてゆく喜び。 工夫をこらす喜びとでも言おうか。これに勝るものはないような気がしている。
生きることのパワーの本質は、実に、お金でもなく、権力でもなく、有名になることでもなく、精神の自由をいかに謳歌できるかどうか、ということだと思えてしまうのだ。
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 さりとて両親の庇護のもとで、昔のように「金のなる木」があると無意識のうちに思えていた時期は、ひとえに快適だった。けれども・・・。快適過ぎるので、自主独立の精神は育たぬまま依頼心だけが膨れ上がっていた。気分が落ち込めば海外旅行。ブランドの洋服。漠然とした不安感からの脱皮はなく、自己反省ばかりに苛まれていた。
今、初めて知る お金のありがたみ。日々の生活の節制は、人間としてのバランスを整えてくれる。塞翁が馬とはこのことだ、と思わずにいられない。
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 それ故に、両親の写真の前で手を合わせる。お父さん。お母さん。ようやくわかりました。何不自由なく育ててくれてありがとう。写真は、大切な友がこの夏撮ってくれました。
posted by アンジェリカ at 11:45| Comment(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする