一か月前、毎月の検診に何げなくでかけた夫が、急きょ入院することになり、「別宅にいるつもりで、この夏の酷い暑さを追い出してよ」いう気分でゆったりと構えていたら、一週間後、容態が急変して「今夜何が起きてもおかしくない」と医者に言われてしまった。

来年八十を迎える年齢であり、ステロイドが強すぎて身体が受けいれなかったらしい。
一週間ほど深刻な事態を通り抜けて、その日、ようやく自分自身を取り戻してくれたのか、生きる意欲が顔やわずかに発する言葉に現れていた。それが第一の喜び。

二つ目は、互いに思いやっているのに、なかなかそりがうまくゆかない娘との会話が、その日、なんともスムーズに流れたこと。また一歩、理解しあえたかも・・・と思えるのだ。それもこれも新聞のよみうり寸評の「風船には風船の言い分があるだろう。さびしいけれど、手を放して自由に空を泳がせてあげよう。それを見守ることを喜びとして」という趣旨の詩人の言葉を心に留めていたからかな、と。

あともうひとつは、四十年続いてきた親しい友と思惑違いで、この夏より音信不通になっていたが、その友から「ずっと考えてきた結果、あなたの言うことは正しい」というメールをもらったこと。私の方も、「この選択はまちがっていなかったか」と何度も問いかけていたので、「ああ、やっぱりわかってくれた」と
そのみっつをふまえて、「もしかして、私はこのままこうやって生きていってもよいかもしれない」という自己肯定ができた最高に素晴らしい一日となった。

人生って、ほんと、いいことと悪いことは同時に起こる。悪いことといいことも同時に起こると思えてならない。これは何かからの抜粋ではなく私の現体験から出てきた言葉だ。「塞翁が馬」から派生してきたものに違いない。だから、もっと大きなものに身をゆだねて、苦しみすぎないこと。それが、私の元気の源といえよう。
