
例えば、義兄や知り合いが次々と亡くなり、「 死 」という概念が朝から晩まで張り付いてしまい鬱々となった一時期、もらった言葉。「 あなたは死が自分の意思でどのようにでもなると思っているのですね 」そこで 私はハッとなる。そうだった。私たち人間は、自分の意思で一日足りとも寿命を伸ばすことなどできなかったことを。 それ故に、翌日には死の意識から完全に解放されていた。

送別会は、ホールに人が入りきらない程集まり、ひとりひとりが別個に挨拶を望んだので、前代未聞の長蛇の列ができた。神父の最後の言葉は「これからも この世で 最も弱き人に寄り添って行きたい」。そして「仰げば尊し」を男女別れて歌った時、彼は後ろを向いたままだった。恐らく泣いていたのだと思う。前を向いた時には顔が真っ赤だったから。

子供達が十人くらいで花束を持ってきた時には、床に座り込んで、ひとりひとりの目を覗き込んで言葉をかけていた。風貌が風貌なので、聖書の時代に戻ったようなひとこまだった。隣の人が言った。「あの方ほど 暖かい人はいなっかった」と。神学生の頃からご存知だそうだ。私は、その時、実感した。「人は 凄いから好きになるのではなく、暖かいから好きになるのだなあ」と。

そして聖書の中の一節を思い浮かべた。「 一番上に立ちたいものは、みんなの一番後ろに立ち、仕えなさい」 それを実践した方だと。だから 慕われるのだと。
退位なさった 上皇ご夫妻にも同じことが言えるのかもしれない。
