周りの人たちの賞賛を浴びているにもかかわらず総じて彼らは謙虚である。自分のことを自慢げに吹聴するような面は一切ない。そこで、その中のひとりに私は質問をしてみた。「どうしてあなたは、いとも簡単に謙譲の美徳をやってのけるの」と。すると彼は答えた。
「行動とか、地位とか、何をやったとか、そんなことはたいしたことではないからですよ」と。驚いて、私はさらなる説明を要求した。すると彼は答えた。
――人というものは、行動とその人間性はまったく別のものなんですよね。
つまり――行動というのは、お金にともなうプレゼントであったり、美辞麗句であったり、社会的パワーであったり、身体であったりするけれど、それらは別の人ととっかえ、ひっかえがきくんですよね。同じものを与えてくれる人がいれば、その別の人で事足りる。でも、人間性は別。その人でなければならない。別の人とは取り換えがきかないんですよ。
あああああ、と私は感動して言葉をなくした。そういうことだったのか。これまでの道中のある時点で、「私は、もう彼らには必要ないのではないか」と思い、ひそかにひとりフェイドアウトしてもいい、と思ったりしてきた。にもかかわらず、年の違う友情はいまだに続いている。むしろ年々、絆は深くなってゆくのがわかる。
そして自分は、これまでの長い年月、行動と内面を一致させることばかり念頭においてきた。恥を偲んで書き記せば、「何か凄いことをやらなくては、己への承認欲求が満たされないのでは」とどこかで思ってきた節がある。こうした傾向は、幼児期にトラウマ体験を持つものに多いと心理学の本には書いてあった。が、そうじゃないんだよね、とひどく納得し、ほっとしている自分がいる。
他者に、安心感や信頼感を持たれる人間になること。できれば一緒にいて、居心地のいい人間になれたらな。今、目の前にあるまっさらな自由な時間をどのように使うか方向性が見えたような気がした。まっさらな自由に乾杯。