人は、悲しみが深ければ深いほど大自然が放射してくれる癒しを、大量に享受できるようにできているのかもしれない。

これまで夫とは別々に生活していても、ショートメールを毎日していたので、寂しいと感じなかった。メールの中身は、職業柄、黒沢明監督の「赤について」だったり、藤沢周平の文章の巧みさだったり。口数の少ない人だったので、「書くことがない」と言われ、それでは感じたことをそのまま文章にしたらどうですか、と認知症予防のために義務づけていたのだ。本人も「大変、大変」と嘆きながらも必死に努力していた。

それが、ある日を境に文章がおかしくなり、やがて来なくなり、電話をしても繋がらない。施設の方に尋ねたら、普段の生活に支障はないが、耳が急に遠くなったらしい。その夜から返信はなくても、「おやすみなさい」メールは続けた。時に奇跡が起きて本人が出るかもしれないと、電話のベルを長く鳴らしてみたりした。それだけでも小さな満足が得られた。「本人のいるあの部屋でベルが鳴っている」と実感できたから。

過日、スカイプのために出向いた折、携帯を返却してもらった。解約のこともあるが、夫の最後の力を出しきった半年間の想いを永久保存してもらいたかったからである。その晩からが、いけなかった。真っ暗な空間に宙ぶらりんになってしまったような、孤独感に襲われてしまっていた。
翌朝、一番、恐れていることを、無理やり行動に移してみた。自分の携帯で夫の携帯にかけてみたのだ。その音は、一瞬、遅れた後、我が家のアンティーク家具の二番目の引き出しの奥まったところで、マシマロに包まれたように弱々しく鳴り響いていた。

数時間後に、私は、シンバを連れて新幹線に乗り、大自然の中に逃げ込んだ。逃げ込まずにはいられなかったというのが本当のところである。今の私には確実に言えることがひとつある。この豊かな大自然があれば、なんとか生きてゆけるかもしれないと。
