この三年近く肺気腫と膠原病で危ないと言われてきたものの、なんども危機を脱してきたものだ。若い頃から自分のことを野人であり、「くじけぬ男」と公言してきたことはある。

私ども夫婦は、前々より、「苦痛除去を除いては、延命治療を辞退いたします」という自筆文書を携帯し、夫の病院や施設にも提出していた。が、なかなか一筋縄ではゆかないものであることを妻として身を持って体験するに至った。
延命治療拒否とは命の重みと医者の使命感のせめぎ合いの闘争でもあったのだ。

けれども唯一救われたのは、四月の初め、夫がカトリックの洗礼を受けたことである。二十年ほど前に、私が「自分の埋葬はカトリック教会で」という望みを強引に叶えたおり、聖堂の地下にある納骨堂に「僕も入れてよ」と言い出したのが始まりで、「じゃあ、仕方ないけど、入れてあげる」と意地悪を言いながら了解したのだった。

夫の洗礼は、いわゆる「天国泥棒」と笑い話風に言われていて、それまでカトリックの戒律に無関心に放埒に生きてきていても、地上を去る段階になり、「願望洗礼」を提出して受理されれば、「これまでしてきた罪は、全て許される」という秘蹟も受けられ、都合よく、天国行きの直行便に乗れるという仕組みなのである。

洗礼名は聖書に出てくるトマス。トマスとは「キリストの復活など信じない。俺は、十字架にかかったキリストの手のひらの釘の穴、胸の槍の刺し傷に指を突っ込んでみなくては信じない」とのたまわった私たち人間の代表的な人物。夫はその話を随分と気に入っていた。それゆえか、夫は最後の一息をふーと微かに吐き終えて、この世を去った。
