例えば、大切な要件がある前夜、目覚まし時計を用意しても、私は緊張しすぎて朝まで眠れないか、耳元でジリジリ鳴っても平然と寝過ごしてしまう極端なタイプなので、起こしてくれるのは、いつも夫の役目だった。海外にいる時も、時差を超えて夫は正確に起こしてくれた。

また引退してからの夫は料理が趣味だったので、私が疲れ果てて一日中眠っていていると「ご飯できたよーー」と起こしてくれ、食事が終わると、また、布団に潜り込む。そうしたことが、どんなに幸福なことだったのか、今になってようやくわかる。
私はこれまで「幸福」というのは、一瞬に感ずるもの、「ああ、しあわせ」とその瞬間感じて過ぎて行くものと思っていたけれど、そうではなかった。「日常の中でつつがなく二人で過ごす」そうした平凡なことが幸福だったのだ。

特に今はしみじみと感じることがある。娘には理解してもらえないようだが、昭和の仕事一筋人間だった夫は、妻さえいればいいタイプの非家庭的男だった。故に、仕事から離れれば、常に妻の方を向き独占欲の塊のような男で、そこに男尊女卑がかぶさっているので、私は何度も逃げ出したくなっていた。そのくせ「もしも、夫がいなくなったら、私は生きてゆけない」と怯えてもいた。子供時代のトラウマが目の前に襲ってくるからだ。
二十年前までの話である。

ところが、どっこい、今、私は一人で生きている。夫の着ていたワイシャツ着て、夫の古びたロンジンの時計を肌身離さずつけて夜も眠る。そして思うのだ。私が幼児期のトラウマを乗り越えられたのは、ひょっとしたら夫の過剰な何かがあったからではないか、と。なぜなら、いつ何時、振り向いても、夫は、遠く離れた道の後ろで必ず私の方を見てくれていた。実に、私に「人間への信頼」というものを回復させてくれたに違いない。

余談になるが、娘が結婚した相手はタイプは違うが、夫と共通項があり、娘はしあわせな家庭を築いている。
