
「喪失感を癒すのは時間だけ」と言い聞かせて、やりきれない気持ちで毎日を送る。普段ならミサに出て御聖体をいただくことによって、いち早く回復するのだが、今年のこの異常な寒さ。扉を開いてだけで震えてが止まらなくなる。夜中は、汗をびっしょりかいて目を覚ます。自律神経が、狂ってしまったのだろう。

その時の気持ちを正直に書くと「生きていたってしょうがない。どうせ、みんな、死んじゃうんだー」という虚無から離れることができないでいた。もちろん、それは投げやりになったのでもなく、死にたくなったのでもなく、ただ、ただ、亡くなったお二人の冷たく静止したままのデスマスクが脳裏に焼き付いていて、彼らとの愉快な思い出もろとも目の前の私の現実まで忽然と消えてしまったような寄る辺ない寂しさだった。

それゆえ、小さな命であったけれどダックスの愛犬がそばで尻尾を振ったり、戯れてきては「命の証である動き」を見せてくれていたので、どんなにか救われたことだろう。
あの時は、たとえ愛犬でなくて金魚鉢の中の金魚が鰭を揺らしてくれても、枯れた藁の下にかくれていたコウロギがとびだしてきて、そばの石の下に潜り込んでも、同じように「命の輝き」を感じとり、ほっとさせてくれたはずだ。

昼間はありがたいことにオリンピックがあり、ある日、まだ風は冷たいのに、陽光が明るさを増して力強くなり春が近いことを教えてくれていた。もう、大丈夫かもしれない、と思えた。そして、世界を圧巻させた羽生結弦氏の「春よ来い」を見て涙をボロボロこぼし、YouTubeでなんども観る。そこには「命の躍動の完璧な美しさ」があったから。今の私は、すっかり元の自分を取り戻している。かつて何かの本で、「人間は、死にすらだんだんとなれてくる」と書いてあった。本当だろうか。
