
実際、犬には感情があり、心がある。現在の息子シンバは散歩が嫌いの手のかかる子でいまだ幼稚園に通っている。私ひとりでは、腰の狭窄症が保てないからだ。散歩嫌いは幼少期のトラウマかと思っていたが、最近、これは生まれつきの性格なのでは、、、と思うようになった。

軽井沢で車に乗る時、代々の子達は助手席に座り、窓から顔をだして外の匂いを嗅ぐのが大好きだった。二頭目のイングリッシュビーグルの時は、窓の外に飽きると、後部に寝そべっていたが、私が迷子になったりして少しでも情けない声を出すと、すぐさま助手席に戻り正座をして「ママ。安心して。僕が見守っているよ」とばかりに真剣な顔をして辺りを
見回していた。

三頭目の子は一時が万事、努力型。常に待機していてでしゃばることはなく、乗車した時は、足を突っ張らせ、出来うる限りのびをして、窓の外に首をだし、長い耳を気持ちよさそうに風にそよがせていた。そして急停車した時も、実に見事に踏ん張ってみせた。
ところがシンバは、窓の外を見るには見るが鼻先だけ出している。胴体の方は、伸びをしているというより背もたれに寄りかかり「立ってるもどき」をするのだ。「なんという横着な子」と毎回笑い出してしまう。そして目を細める。愛しいものを見る時、いつのまにか目が細くなるということを、私は犬族との交流で知った。

そしてこの春、わかったこと。シンバは散歩が嫌いというわけではなかった。軽井沢のハルニレテラスとプリンスのアウトレットならば、嬉々として率先して一時間半も歩く。私としては、これまでの子と同様に野山をひとつ越えたり、名も知らぬ湖に出向いたりしたかったのだが、、、。そうなんだね。あなたは 自分流を貫いていいよ。私が涙していた頃は、すっ飛んできて、顔中ベチョベチョ舐めてくれた。「ママー。ママー。泣かないで。僕がいつも そばにいるでしょ」その叫びが聞こえてきたのだから。
