
時には姉から一緒に暮らそうと言われても、時にはノマド仲間の男性と心が通い合い、自分の家族と共に暮らそうと望まれても、定住することを拒み、再び、過酷とも言える未知の明日へと飛び出して行く。そうした世界へと突き動かす原動力とは、一体、何なんだろう。主人公のような生活を強いられている私ではないのだが、なぜか、彼女の気持ちが理解できる。自分と重ね合わせている。それが不思議でならない。

あえて言えば、原動力とは、「魂を含めた身体中の血管を入れ替えるため」とでもなるだろうか。日常に縛られてきた結婚生活を卒業して、それまでの社会的価値観を捨て去り、ただ、生きることに焦点を絞る。例えば、幽玄な大自然の中に身を置くと、一切の思考がなくなり、毛細血管まで皮膚の面に浮き出してきて、血の流れが一斉に紅色を取り戻し巡廻し始めてゆく。それが実感できる。その実感こそが、生きていることの幸福感であると。

森羅万象の聖なる暁の中で刻々と変わる空気を味合うことは、この世のルビーの原石の中に佇むと同じこと。そして槍よりも白く鋭い滝の下の壺に身を委ねたり、目を背けたくなるほどの荒れ果てた荒野にひとり佇む時ですら、ゆったりと背景を味わう。
おそらく、彼女は、誰も必要としないでいる。人間を必要としないでいる。それでいて、魂は、天雲の舞を自ら前に呼び覚ましている。

ただ一つ。ファーンよ。今はいい。働けるから。でも、働けなくなった時、あなたはどうするのか。誰かを頼るのか。それとも病院に。否。きっと彼女はすでに決めているはずだ。最後の最後まで、一人で頑張り抜くと。それだけを決めていることだろう。あとは、天にまかせて、、、。だから、私は、厚かましくも思うのだ。映画が終わるたびに、「そう、私もノマドの一人。ノマドそのものとして 生きて行きたい」と。
