2018年03月06日

無償の愛は幻想か

 学生時代のクラスメート・九名が、月に一度集まって二十五年近くなる。
 若かった時に仲良しグループであったわけではなく、むしろ顔をつきあわすのも苦手だった人も欧州料理を軸に混じりあっているのだが、こうして一緒に年を経てくれば、互いに本音をさらしあうようになる。すると。自分とは正反対の意見を持っていたりして、とても参考になり、世界が広くなる。これから、益々、こうした仲間がいることが、ありがたくなってゆくと予測している。
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 その仲間の一人が、自分の母親を見送るのに大変な思いをしたので「自分は、絶対に娘には、そうした辛い思いはさせたくない」と断固とした口調で言った。それに続いて「ほんとうよねえ」と同調するものもいた。
 そこで私は、憎たれ口を叩く。「そういうの、しばしば聞く台詞ですけれど、百パーセント本音でしょうかねえ。自分をいい人だと思いたいからではないですか」と。「それに、そういう甘いセンチメンタルなことを言っているから、子供は親を大切に思わなくなるのではないですか・・・」と。
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 これは、私の道しるべである執行草舟氏の本、「生きる」からの「無償の愛が地獄をつくる」章の受け売りであるのだが、実際、海外や日本の映画など見ても、昔から「いかに母親は素晴らしく無償の愛ができるのか」という物語りを、これでもか、これでもか、と語ってきている。それで、だれもが「母は、崇高な愛が簡単にできる種類の生き物」あるいは「できねばならない人たち」という幻想を抱き、それに親も子もふりまわされているのではないかと思ってしまうのだ。(でも、まあ、これは男の子のママにはあてはまらないことかもしれませんが・・・)
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 実際、私も、母に「なぜ産みの親なのに、私をかばってくれなかったのか」と心の中でずっと責め続けてきた。つまり、一個の人間としての彼女のかけがいのない思い「夫に愛されていたいから、言いたくても言えない」から始まって、「姑には、何があっても従わねばならない」という時代背景など、その中には入っておらず、「あなたは私の母親なのだから、身をていして幼い私をかばうべきだった」という完璧な自己犠牲的愛を、ずっと要求し続けてきたが故だと、ようやくわかってきた。
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 もしも無償の愛が本当にあるとしたら、それは凡庸な私のとって、拒絶されても恨まれても一日として子供の安否を気遣わない日はないという事実。きっと亡くなるまで私の母も同じだったことだろう。
posted by アンジェリカ at 14:12| Comment(0) | 立木アンジェリからのお便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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