
誕生日を過ぎると、あっさり度胸が出てきて、アメリカの友から教えられた「我々は 年をとってゆくのではなく、年々、素晴らしくなってゆくのだ」という標語を胸に掲げていた。還暦からは「 若い時代は身体は自由だが、心は不自由。今は身体が不自由でも、心は自由に操ることができるようになってきた」と己に言い聞かせて鼓舞してきた。

けれども一人住まいになって七十代後半、明け方、目を覚ましたりすると、寂しさで胸が締め付けられそうになる。そこで相棒である愛犬の名前を数回、呼ぶと、心は鎮まり返り、再び眠れる。笑い話のようであるが、本人は真剣なのである。なんとか抜け出そうと、新美南吉の「でんでん虫のかなしみ」を読む。背中にくっついている殻の中に、哀しみがいっぱい詰まっていることを、気付いてしまったでんでん虫。

話はガラリと変わるが、半月前、通いの若者に寝室の鍵を変えてもらうことにした。そこで 備え付けの古い鍵を取り外してもらい、その構造を見て、私は心底、仰天したのだ。てっきり、扉の裏と表についている二枚の金具だけでカギは成り立っていると思い込んでいたのである。

未だに古い鍵は捨てられない。この驚きこそ、なんらかの固定観念にとらわれてしまった私へのヒントのような気がして。人間は、何を、どのように思い込むかが勝負なのだから、とりあえず、「でんでん虫のかなしみ」の終わりに近い文章「かなしみは誰もが持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は 私のかなしみをこらえていかなきゃならない」の「こらえて」を「乗り越えて何かを見つけなきゃならない」に変更することにした。着眼点を変えれば、きっと、すべてが好転すると信じて。
